遊林寺|真宗大谷派(東本願寺)

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幸せは上の方にあると思っていた

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○ 私は、目の前の幸せに気付けない時がよくあります。それが当たり前だと思っているから。だから背伸びしてみたりします。しかし、当たり前だと思っていたことが突然当たり前でなくなる。その時に、当たり前なんてことは本当はどこにもないんだ、と自分がいかに幸せだったのか気付く。当たり前だと思い目もくれなかった足元の日常に目を向け、感謝する心を持てたらたくさんの幸せがありました。

私たちは忘れる生き物です。目の前の大切なことを忘れてしまうからこそ、私は仏教を聞き尋ねていますし、その歩みこそが一日一日を大切に生き、私も他人も大切にできることなのかな、と思いました。 釋顕大

 

 

○ 大震災の後、「あたりまえの日常がとても幸せなことだったと気付いた」とよく耳にしました。

その声は私にとっても、当たり前だと思ってしまう日常をもう一度見つめ直すご縁となり、今ここにこうしていること、そのことの素晴らしさを教えてくださいました。

でもいつのまにかまた私はそのことを忘れ「当たり前のこと」とすら思わない日常に戻ってしまっていました。

手に入らないことや亡くしたことを悲しみ、ああすれば良かったこうすれば良かったと責める毎日ですが、そんな私に「今ここにあること」に気付くよう呼びかけ続けてくれるはたらきがありました。

あの時の多くのいのちから教えていただいた幸せの意味。その声がまたこの法語から聞こえてきます。 三島恵美里

 

 

○ 受験でも、就活でも、会社に入ってからも、より上へ、より早く、より沢山手に入れることが幸せへの道と信じていました。そうして、上へ上へと30年間もがいた結果、遂に体が悲鳴をあげ、それ以上進めなくなりました。それでも心は「止まったら負けだ」と、更なる匍匐前進を強いました。でも遂に、一漕ぎどころか、指先さえも動かすことができなくなりました。

そうなっても尚、数年間自身の葛藤は去りませんでした。「上へ行かなくても良いのだろうか?」という不安な気持ちが少なくなるまでには随分時間が必要でした。

当初私は「これまでの生き方を自力で諦めることができた」と思っていましたが、最近仏教に接するようになって「阿弥陀様が、元来自分が生きたいと思っていた道に導いてくださったのではないか」と思うようになりました。市井にあって周囲に感謝し、お互いを気遣いながら普通に生きるということが私にとっても幸せになりました。 釋敏往

 

 

○  私は八年前に最愛の妻を癌で亡くしました。当時は悲しくて、さみしくて、苦しくて・・・。

毎日が悲しく、苦しく、辛い日々でした。この悲しみを、苦しみをとるために心療内科やカウンセリング、グレイフケアなど何か所もまわりました。同様に、伴侶を失くされた方々とも交流しました。苦しくとも悲しくとも、時間はそれでも流れていきます。そんな中で、私なりに分かったことがありました。それは、苦しみや悲しみを取り払おう、取り払おうと努力している自分の姿でした。

妻がいなくなった悲しみや苦しみは、悪い感情ではありません。大切だったゆえの感情です。この感情と一緒に生き続けようと考えた時に、「ふっと」肩の力が抜ける気持ちがしました。「幸せ」もきっと同じなんだろうと思うのです。今よりも、もっと幸せになりたいと幸せを追い求める願いは誰しも抱く思いなのですが、今の生活の有り難さに気付きそして感謝できることが、本当の幸せなのでしょう。

今の私は、まだまだ妻と暮らした日々にこだわっています。そのこだわりが薄れていくときに、きっと日々の生活の中の幸せが感じられるのでしょう。鈴木 豊

 

 

○たとえ「不幸」と自分でも思い、他人からもそう言われるような境遇にあっても、嘆きの海に溺れるだけではない「底力」を具えられた人がいました。その人は、ただこれから先の希望を夢見ると言うのではありません。ただ自分の気持ちを押し殺し、忍耐が肝心という人でもありません。色々と嘆いたり悩んだりした後に、その人には自分が何を嘆き何を見失っているのか自分に確かめる勇気が具えられたのです。それを具えた元は自分の努力ではありません。いのちそのものの願いがその人に勇気を具えたのです。そうしたら不思議な事に出遭いました。それまでの「あれもない、これもない、」の「ない、ない」は転じて「ある、ある」になりました。

その人はすでに亡くなられましたが、名は「中村久子」という方です。その人を想う時、私は自分が足元の無い幽霊のように感じられてきます。足元を人知と合理によってすっかり失ってしまっているようです。住職 釋淳照

 

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