もう 全部他人のせい 恥ずかしい
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○厳しい言葉です。
私は真宗念仏者の生活とは、教えのもとで自分自身を見つめ直し続ける歩みだと思っています。自分のことなら、自分が一番よく知っている。以前は当たり前のようにそう思っていました。お前におれの何が分かるんだ、とでも言うような思いも抱いていました。しかし、実際は自分のことなど全然わかっていませんでした。
仏教は自分の本当の姿を言い当てます。それが窮屈に感じたり、そんなのは綺麗ごとだと思う時もあります。何故なら他人のせいにしたり、何かのせいにした方が私が傷つかないからです。自分を守るためなら他人を傷つけても構わない。そういう生き方が日常化していました。
自分が傷つくことは怖いことです。他人を傷つけることも怖いことです。でも、傷つけたことさえわからないことが、実は一番怖いことでした。 釋顕大
○色々な面で他人のせいにしてしまっている自分自身を恥ずかしいとまず気が付かされました。でもその後で「私はちゃんと自分のせい(責任)だと後悔することもある。」と自分を肯定する気持ちが起きてきました。私はしっかり反省し、後悔している、と。
しかし、他人のせいにしていないとは言え、「私のせい」にすればちゃんと受け止めていると言えるのでしょうか。
あの時は気が動転していてあんなことをしてしまった。ついカッとなって思ってもいないことを言ってしまった。普段の私ならそんなことはしないのに・・・。あの時の私は自分を見失っていて本当の私ではなかったの・・・。
すべて私自身であるはずなのにあの時の私を他人事のように見てしまう。自分のせいだと思っていても、どこか「過去の私」のせいにしているような気がします。
自分のことだと受け止めているように見えても、結局は「私のせい」だということにして逃げ、なかなか自分自身と向き合えていないことを知らされました。恥ずかしいことです。 三島恵美里
○先日のことです。ある国から日本に今年5月に引っ越してきた方か
しかし案の定約束の時間を過ぎても現れず、20分後にやっと「
今から考えれば、私の怒りの背景には「
○ストレス社会といわれる現代。
ストレスの原因のひとつに、「失敗の許されない社会」、という側面があるように思います。
会社の中で、また医療など人の命にかかわる組織の中で、あるいは教育という子どもの人権にかかわる組織等々の組織などで、「失敗は許されない」という考え方があるように思います。
他言できない内容や重要な物、現金の類から 鍵、書類、接し方から、対応、諸連絡等々。
さらに多くのことが、多くの業務の中で、「失敗が許されない」という事柄が多くあります。
失敗が許されない業務なのですが、失敗ギリギリの状態を経験したことが、多くの人にはあるのではないでしょうか。
私などは年をとっていますので、自分自身に自信がありません。
鍵を置いた場所が思い出せなかったり、書類を置いた場所を忘れていたり、預かったものをどこに置いたのか、思い出せなかったり・・・・・・。
以前、共用施設の鍵を保管する、指定されている鍵ボックスから鍵が無くなり、騒ぎになったことがありました。誰がその鍵を持っているのか、組織全員が集められ鍵探しが始まりました。
「その鍵を今日使った人は、誰ですか」、「最後にその鍵を使った人は誰ですか」・・・。
私もその鍵を使っていたので、鍵をどこに置いたのか必死に考えるのですが、思い出せません。
私が鍵を失くしてしまった。
鍵を失くしたのは私です、と言おうと思っていた矢先に、私の次に、その鍵を使った人がいることがわかると・・・、途端に私の心の緊張が一瞬で無くなり、
「あ~私でなくて良かった。 ○○さんが鍵を失くしたのでは・・・」
みなさんも、こうした経験に近い、失敗ギリギリの経験があるのではないでしょうか。
失敗したのが私でなければ喜べることなのでしょうか。
「もう全部 他人のせい 恥ずかしい」こと、ではないでしょうか。
私などは、しょっちゅう「もう全部が他人のせいで恥ずかしい」状態です。 鈴木 豊
○同じ一つの事でも「他人のせいで…」となるか、「貴方のお陰で…」となるのか。
その事を通して自分をどう見定めるのか。ここが人間の境目でしょう。 住職 釋淳照