遊林寺|真宗大谷派(東本願寺)

2016.2

生まれてきた時の記憶は全くない・・・・。  それだけ支えられてきとということです

○今年も1月11日に全国各地で成人式が催されました。
新成人の皆さんは口々に「大人としての自覚をもって生きていきたい」と抱負を述べていました。
頼もしい限りです。
きっとこれまで支えて来てくれた人々に感謝し、これからは自分がもっと他者を支えられるようになりたい、と思われていることでしょう。
人、ひとりが20歳になるまでには、およそ延べ200万人もの人々のお世話になっていると聞いたことがあります。
例えば、毎日の食事を作ってくれるのは母かもしれませんが、その中に含まれる野菜一つとってみても
スーパーの売り子さん、レジの方、仕入れ担当の方、トラックのドライーバーさん、そのトラックの整備士さん、
野菜農家の方、野菜の種を作ってくれる方等々数多のみなさんの手を煩わせて、やっと私たちが口にすることができます。
生まれたばかりの赤ん坊が、このような周囲の支えを自覚できないのは当たり前でしょう。
怖いのは、人生60年近くも生きてきた私自身が、赤ん坊の時の記憶がないばかりか
今日只今、この瞬間にさえ支えられていることを自覚し感謝していないことに気が付くことです。
今日のように寒波が押し寄せている日に暖房がなかったら、その暖房を可能にしてくれている燃料や発電設備を提供・維持してくれる方々が居なかったら、
どれほど私の身体のみならず、心までが荒んでくるか考えただけでも恐ろしくなります。
目には見えない多くの人々に支えられてこそ、今の私があることに感謝し、加えて私自身も小さいながら自分の役割をきっちりと果たしていきたいと思います。
そして願わくばそのことが誰か他の方の支えの一助になれば有り難いと思いつつ、精一杯生きていきたいと思います。
 釋敏往

私はこの法語を読ませていただき、

人間の生死という事実が頭に浮かびました。
 人は自分の計らいを超えたところで「生まれ」ます。
 人は自分の計らいを超えたところで「亡く」なります。
 阿弥陀様の御手に抱かれながらこの世に生まれ、
 阿弥陀様の御手に抱かれながら極楽に往生させていただく、
 阿弥陀様に、支えられながら命を生きているんだなあ・・・。
 法語を通して、そんな思いを抱かせていただきました。
                           鈴木 豊
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