遊林寺|真宗大谷派(東本願寺)

2024.4案内はがき法語面OL

自分の人生に「ありがとう」と言えますか?

人生の最後に「ありがとう」と言って(思いを持って)死んでいけることが幸せだと思う。しかし実際は愚痴ばかりだ。人生には良いことばかりではなく怒り、悲しみ、痛み、苦しみなど様々なことがあり、それに直面する時はとてもではないがありがとうの気持ちなどおこらない。怒りの中で「あぁ腹が立つ!ありがとう!」とはならないわけだ。
しかし一々のことはそれとして、自分の人生を全てひっくるめ振り返った時にはやはりありがとうなのではないかと思わせていただいたのが念仏の教えである。いや、ありがとうというよりも「かたじけない」という表現の方がしっくりくるかもしれない。それは「自分の人生」とは言っても決して一人の力で生きているわけでもなく、阿弥陀の本願を初めとして、数え切れない無数の人にその存在・言葉・思いをもって支えられている事実があり、それでも自分の思いを最優先にして生きているのが私たちだからだ。そのことを思う時、ただただかたじけなさに頭が下がる。
これからまだ自分はどれくらい生きるつもりなのか。今後の人生もその本質は変わらない。
『人生の最後に「ありがとう」と言って(思いを持って)死んでいけることが幸せだと思う。』と前述したが、では人生の最後とは一体いつなのか。私たちは本当は今日とも明日とも知れぬ命をいつまでも続いていくかのようにして生きているが、そんなことでは「ありがとう」は間に合わない。そうなれば、一々のことにグチグチと愚痴をこぼしたまま死んでいくことになってしまう。今この場で死んでも不思議ではない身を生きている自覚が必要だ。だがその自覚もまた維持するのは難しい。どこまでも自分の思いに生きてしまうのが私である。
だからこそ阿弥陀の本願がある。念仏の教えがある。諸仏諸縁の問いかけがある。
「お前はいつまで生きるつもりか。人生を愚痴で終えるなよ。」と。
その問いかけを聞くたびにいのちの事実に立ち帰り「今死ぬ身」を自覚させていただくのである。今自覚の内に死ぬならば、いつでも死ねるいのちを賜ることができる。その反復が念仏(往生)の道であり、「ありがとうの人生」なのだと感じている。

                                                                                               釋法遵

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