覚悟 人生に腹を据えてただ生きる
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いい言葉だね。それにしてもなかなかできないよね。
この言葉を法語ハガキに選んだと法遵に見せられた時、二人で思わず苦笑いしました。
先日、ご法事の後のお斎(会食)の挨拶で施主さんが言いました。「遊林寺からいただいたハガキを毎日読んでいます。『覚悟 人生に腹を据えてだだ生きる』この言葉から力をもらっています。」と。また、同じ席でお参りされた親戚の方もこんなことを言われました。「私、病気になって腹が据わりました。」と。
気が付けば「腹が据わらない」その訳はいったいどこにあるのでしょうか?
「これがこうだったらいいのに・・・あれがああだから困るんだ(嫌なんだ・・・)」
よく見ると自分の外にばかり求めている私が見えてきます。
空想や夢という名の欲望に振り回されて事実に立てない私の姿です。
夢を持つこともひとつのエネルギーの源になるのでしょうが、もし、その夢に破れた時、言い訳と愚痴に満ちてしまうのも私たちの有様ではないでしょうか。
たとえ自分にとって逆境でもそこを受け止めるその力が具わる。これが念仏の功徳なのでしょう。四肢無き念仏者の中村久子女史の力強い歩みを思い起こします。
仮に今、自分が受け止められず腹が据わらなくても私たちの周りに「あ、この人は・・」
と思える人がいませんか?事実をいただきながら静かに深く歩んでいる人・・・。
その人のご苦労に出逢う時、胸が熱くなる思いがします。たとえできていなくても感じるのです。
思わしくないことに出逢った時、しかたがないと下を向くのか、それならばと前を向くのか、同じ事実でも開かれる道は違ってきます。私たちはどちらの道を歩むのでしょうか?
追記
表記の言葉は「念仏は無碍の一道なり」という歎異抄のお言葉を遊林寺聞法会にて大島義男先生に読み砕いていただいた法話が私たちに響いたことを書かせていただきました。
同じ法話の中で「南無阿弥陀仏って何か特殊なことのように思われがちですが、普通なことなんですね。覚悟する、腹を据えるってことなんですよ・・・。」と。
2012・5・17遊林寺本保記