人は どこに始まり どこに終わるのか そしてその間をどう生きるのか
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気が付けば、淳(きよし)と呼ばれていた。生まれたその時を僕は知らない。
日本国の昭和の時代に本保(もとやす)という家に生まれ、「庶民の家の子としてまあそこそこでよし。なるべくなら健康でいて、人に後ろ指さされるようなことだけはしてくれるな。」そんな思いの中に育ったのではないかと勝手に想像してみる。
夢が膨らんだり破れたりくり返す中でひょんなこと(みなさんの温かい心配の中)から本保淳という名を持ちつつも「釋淳照(しゃくじゅんしょう)」という名が授けられた。
「本保の子」である以前に「阿弥陀の子」であると告げられた。そして「阿弥陀の子」はあらゆるいのちと共に生きる子であることも。そのことを確かめながら歩むよう阿弥陀仏よりいわれている。
住職 釋淳照