遊林寺|真宗大谷派(東本願寺)

2015-11

胸に手をあてて聞いてみる

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○胸に手をあてて聞いてみた。私の胸から聞こえる声は、感謝の声より愚痴の声の方が多いように思えた。心の内は見えにくいし醜い。そんな私だなと、しみじみ思った。しかし、自分を知ることは大切なことだと思う。自分を知ることは、自分を大切にし、また他人を知っていくことにつながる。今、私が何に悩み、何に悲しみ、何に怒り、何に喜んでいるのか。そしてそれは正しいのか。それを仏法のもとで確認していくあゆみを大切にしたいし、私を促すはたらきかけがあることに感謝したい。     釋顕大

 

○この言葉を見て、胸に聞いてみようとしました、けれども私はどうしても頭で考えることが先に立ってしまいます。

私にとって都合の悪いことは「聞こえないフリ」をしてみたり、今の私を褒めてもらえる言葉を聞きたいと期待してしまいます。自分の都合で考えてしまい、素直に胸に聞くということはなかなかできません。
胸に手をあてて聞いてみると、素直に聞く事が出来ない私に気付くことになりました。
「素直に聞く」ということは今の私の姿を背伸びせずそのままに受け止めるということ。
この言葉から、私とは何かと立ち止まらせて見つめ直す時間をいただきました。 三島恵美里

 

 

○いつの頃からか「胸に手をあてて聞いてみろ」というセリフを聞かなくなりました。

ホンの数十年前までは、親が子に、上司が部下に、教師が生徒にこの言葉を投げかけ個々の自省を促したものでした。ところが、現代では胸に当てるべき手には常に携帯電話が握られゲームやソーシャルネットワークに忙しく、一見とても自分自身を振り返る時間などはないようです。

が、最近実は逆なのではないかと思い始めています。「胸に手を当てること」が怖いので、スマホを握り「聞いてみる」ことに羞恥を感じるから画面にくぎ付けになっているのではないか、と。本当は私たちは今既に「自分自身の中の何かがおかしい」と気がついているのではないでしょうか。そしてその正体は自身の弱さからくる利己心や我儘であることを直感的に感じているのだろうと思います。その現実に目を背けるための行動が、乗り物や公共の場や歩行中でさえも目にする一心不乱の(ように見える)「あの」姿ではないでしょうか。

自分を振り返ることは、恥ずかしく時には辛いものです。しかしその行為を経ることによってこそ人は洗われ、成長するとも思います。勇気を出して、着座し、手を膝に乗せ阿弥陀様の前で自分自身を省みたいと思います。我を通し過ぎなかったか、他人に冷たくなかったか

その動機は善であったか、私心はなかったか、と。          釋敏往

 

 

 

○私はこの法語を読ませていただき、
多忙な毎日、仕事での、生活でのストレス。
そんな中で、自分の「心」を「亡」くし、
周りの人に不平を言い、
周りの人に不満を言っている私がいます。
心の中の仏さま
胸に手をあてて
聴いてみる、
あらためて、自分の増上慢の心に気づかせていただけました。 鈴木 豊

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