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特別聞法会「歎異抄」

  日程:2026年2月15日(日) | 時間:14:30〜16:00 | 聴講料:2500円 講師:大島義男師   親鸞聖人の弟子が著したといわれる「歎異抄」のお言葉を通して、私たち浄土真宗の門徒・縁者の信仰に対する迷いや疑問を解き明かし浄土真宗の南無阿弥陀仏を丁寧に学ぶ大事な聞法会です。 昔から浄土真宗の救いは「弥陀の本願を信じ念仏申さば仏に成る」・「唯念仏」といわれていますが、その意味について親鸞聖人が存命の時からいろいろな誤解が渦巻いていたようです。そのことがうかがえる「歎異抄」は当時の信者が感じていた疑問と今日において私たちが感じる疑問をつなぎ合わせてくれる書物です。 本当の意味で人を救う念仏の世界を確かめにいらしてください。   講師の大島先生は、とてもダイナミックにそして解り易い現代の日本語でお話し下さいます。 老いも若きも女も男も仏法を聞いて解放されましょう。知らず知らずに自分に囚われてしまっている自分から・・・。

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春季彼岸会

  日程:2026年3月22日(日) | 時間:14:30〜 法話:住職   お彼岸はお盆とならび、古くから私たち日本人の生活に根付いた伝統的な仏事です。   春秋の彼岸は、私たちより先に浄土にお還りになった仏様たちの願いに導かれたお墓参りはもちろんのこと、今を生きている私たちが、今生においての阿弥陀仏の本願をいただき、その本願に応える浄土往生を願いつつ歩めるよう南無阿弥陀仏の教えに耳を澄ます大事な時です。   「彼岸」はパーラミタという言葉が原語で「到(とう)彼岸(ひがん)」と漢訳されます。「此(こ)の岸から彼(か)の岸に渡り到る」という意味です。これは「浄土往生」ということを捉えるときに大きく係わってくる言葉です。読み方によっては「到彼岸」は死後の世界を表しているようにも読めます。 この世の生活が如何に不憫で辛いものであっても、亡くなってあの世に行けば幸せになれるというような、どこか歪んでしまった阿弥陀信仰が昔からあるようです。しかし、あの世での幸福に願いを託して、この世を忍耐するように生きていくことを本当に仏教が説いたのでしょうか・・。 浄土真宗の一門は、「浄土往生」の本心をいただく「彼岸法要」をお勤めしましょう。

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おみがき奉仕お願い

報恩講を迎えるにあたり、遊林寺の仏具のおみがきを行います。 是非ご奉仕をお願いします。 2026年10月8日(木)13時~15時頃の予定です。 ご自宅にある真ちゅう製の仏具もお持ちください。 一緒におみがきしましょう。   ご奉仕いただける方は事前にお電話ください。 045-802-8874

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「まさか自分が見送るとは思ってもみなかった」

この言葉は、息子さんを亡くされた方の涙ながらのお言葉です。 「順当にいけば、息子にすべてを託して先に自分が死んで、自分が息子に見送ってもらうつもりだったのに。」ということでした。 「人生はまさかの連続」といいます。「まさか」とは予想もしていなかったことが起こることをいいますが、それは時に重く辛くのしかかってきます。 人生何が起こるかわからないということなのでしょうが、私たちはわかったつもりで居て、実はその「言葉」しかわかっていないのかもしれません。 言葉ではなくその「事実」を亡き人は身をもって辛さとともに伝えてくださっているのでしょう。 そうしますと「見送る」とはいっても、一体私たちはどこに立ち、亡き人を一体どこに見送ったのでしょうか。「事実」を何もわかっておらず、教えられるのはいつも私たちの方です。 見送られ見守られているのは、本当は私たちなのではないでしょうか。                                                           釋法遵                                        ダウンロードはこちら

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自分の人生に「ありがとう」と言えますか?

人生の最後に「ありがとう」と言って(思いを持って)死んでいけることが幸せだと思う。しかし実際は愚痴ばかりだ。人生には良いことばかりではなく怒り、悲しみ、痛み、苦しみなど様々なことがあり、それに直面する時はとてもではないがありがとうの気持ちなどおこらない。怒りの中で「あぁ腹が立つ!ありがとう!」とはならないわけだ。 しかし一々のことはそれとして、自分の人生を全てひっくるめ振り返った時にはやはりありがとうなのではないかと思わせていただいたのが念仏の教えである。いや、ありがとうというよりも「かたじけない」という表現の方がしっくりくるかもしれない。それは「自分の人生」とは言っても決して一人の力で生きているわけでもなく、阿弥陀の本願を初めとして、数え切れない無数の人にその存在・言葉・思いをもって支えられている事実があり、それでも自分の思いを最優先にして生きているのが私たちだからだ。そのことを思う時、ただただかたじけなさに頭が下がる。 これからまだ自分はどれくらい生きるつもりなのか。今後の人生もその本質は変わらない。 『人生の最後に「ありがとう」と言って(思いを持って)死んでいけることが幸せだと思う。』と前述したが、では人生の最後とは一体いつなのか。私たちは本当は今日とも明日とも知れぬ命をいつまでも続いていくかのようにして生きているが、そんなことでは「ありがとう」は間に合わない。そうなれば、一々のことにグチグチと愚痴をこぼしたまま死んでいくことになってしまう。今この場で死んでも不思議ではない身を生きている自覚が必要だ。だがその自覚もまた維持するのは難しい。どこまでも自分の思いに生きてしまうのが私である。 だからこそ阿弥陀の本願がある。念仏の教えがある。諸仏諸縁の問いかけがある。 「お前はいつまで生きるつもりか。人生を愚痴で終えるなよ。」と。 その問いかけを聞くたびにいのちの事実に立ち帰り「今死ぬ身」を自覚させていただくのである。今自覚の内に死ぬならば、いつでも死ねるいのちを賜ることができる。その反復が念仏(往生)の道であり、「ありがとうの人生」なのだと感じている。                                                                                                釋法遵 ダウンロードはこちら

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